◉1冊の本が出るほど馬鹿げた論争だということである。
◉ましてや、日本の小学校に英語を入れてしまっては、肝心の「思考力養成の時間」が皆無である現状を、どう言い訳するのか…。
「日本人に一番合った英語学習法:斎藤兆史著」という文庫本があります。動画とは関係ありませんが、まえがきを紹介します。
「日本人に一番合った英語学習法:斎藤兆史著」
<まえがき>身のまわりでこういう英語教育批判をよく耳にしないだろうか。英語圏の子供たちは、みな文法なんか勉強しなくても自然に英語を習得するのに、日本では文法や読解を中心とした受験英語ばかり勉強するから、いつまでたってもさっぱり英語が話せるようにならない。もっと早いうちから、いわゆる「ネイ
ティブ・スピーカー」の先生についてコミュニケーションを通じて英語を勉強すれば、自然にしゃべれるようになるはずだ。
あるいは、こういう言い方で日本の英語教育を批判する人もいる。自分は、いくら日本で英語を勉強してもさっぱり駄目だったが、アメリカで一年暮らしてみたら、ちゃんと英語で話が通じるようになった。日本で教えている英語は間違っている。どうだろう。耳にタコができるほど聞き飽きた批判ではないだろうか。だが、これから本書中で論じるような問題をかえりみずに
【こんな無邪気な英語論】
を唱えているうちは、日本人はこれからも英語に振り回され続ける。
英語が日本に初上陸したのは西暦1600年である。それから400年あまりが経過したいま、我々は、日本英語受容史上ほかに類を見ないほどの英語狂騒の時代を迎えている。街を歩けば、いたるところで英会話学校の看板や広告を目にする。書店には語学書が溢れている。誰もかれも、みな英語を身につけようと右往左往している。2002年、多くの反対意見にもかかわらず、「総合的な学習」の一環として小学校に英語が導入された。さらに2004年に文部科学省は中央教育審議会に外国語専門部会を置き、本格的に小学校英語教科化を検討しはじめた。地域限定で規制緩和を進める構造改革特区を活用した小学校英語教育は、すでに各地で実施されている。日本人は英語ができないから駄目だという。このままでは、日本は国際社会で生き残れないという。だが、どの程度の英語力があれば、「英語ができる」ことになるのだろうか。日本人の何割が、どこまで英語に習熟すれば、日本は国際社会で生
きていけるというのか。そもそも、どのような場面で、どんな風に英語を使えばいいというのだろう。本来は、まず真っ先に議論されなければいけない問題ばかりである。残念ながら、いまの日本の英語政策には哲学がない。そこにあるのは、ただ漠然とした憧慢や焦燥感、子供たちの語感を育てることよりも政治を優先する語学行政、そして英語関連学界の卑小な権力争いだけである。そこにまた玉石混交の英語産業が絡むから、日本の英語はますますもって訳がわからなくなっている。とはいえ、日本における英語問題の根は、さほど深くはない。基本的には、すべて英語に対する認識の甘さに起因している。多くの日本人が、英語は本来簡単に身につくべきものだと思っている。そして、いくら勉強してもそれが身につかないのは間違った英語教育によるものだと思っている。まず、この考え方を改めなければいけない。本書は、第一に、日本の英語受容の歴史、および歴史上の偉人たちの外国語学習を概観することにより、いかなる英語学習法が日本人の肌に合っているのかを考察することを目的としている。英語学習の際の参考にしていただきたいと思う。また、逆説的に聞こえるかもしれないが、本書は、日本の英語問題を多面的に検じゅばく
証することにより、日本人を英語の呪縛から解き放つことも目的としている。個人
の得意技能よりも英語力が人事を大きく左右するような社会が健全でないというこ
と、そもそも並大抵の努力で英語など使いこなせるようにならないということ、そ
して日本人が英語学習のために浪費している労力の有効な使い道がほかにいくらで
もあることに、少しでも多くの人が気づいてくれれば幸いである。